第57回『一億本の向日葵』~カフェには私のいのち、あなたのいのちが集まる~

第57回『一億本の向日葵』

~カフェには私のいのち、あなたのいのちが集まる~

私はもともと誰かの人生のお話を聴くのが好きでした。どんな出来事があって、どんな事を思ったり考えたりして、どんな風に生きてきたのか。似たような出来事であったとしても、誰一人として同じ道を歩んでいる人はおらず、それぞれの人生の物語は本当に“個別的なもの”だということを感じます。そこにその人の「いのち」があることを実感します。

日常の中で私たちは色んな方と出会い、挨拶から始まり、天気のこと、身近にあった出来事のことなど世間話をしたりしますが、そこではなかなか「いのち」を感じることができません。悲しいニュースが話題に上がったとしても、遠く離れたいのちとして捉えることが多いのではないかと思います。ここ最近、学校で行われるがん教育についてよく考えるのですが、「いのちは大切」だということを私は説得力を持って話せるのだろうか、私は「いのちは大切」という言葉に深い納得があるのだろうかと悩みました。存在=いのちなのか、肉体=いのちなのか・・・混乱していました。未だに混乱してはいるのですが、ひとつはっきりとしてきたのは、肉体そのものよりもその肉体を纏ったその人がどんな人でどんな事を思い、どんな風に生きているのかという所に私はいのちを感じているということです。誰かの死に痛みを感じる時、私はその人の発した声を、やってきたことを、記したものを少なからず知っています。それが複数の内の一つのいのちが、とても個別的でかけがえのないいのちに変化する瞬間なのではないかと考えました。「いのちが大切」という言葉を、「私の存在が大切」「あなたの存在が大切」に置き換えると私ははっきりいのちの大切さをこの手に掴むことができます。学校でのがん教育の中で「いのちの大切さ」を子どもたちが受け取っていくのにも、やはり個別的でかけがえのない人生のお話が必要ではないかなと思います。

カフェという場所は複数のいのちが、個別的でかけがえのないいのちを携えて集まる場所です。カフェでは他の誰も代わることのできない“あなた”“わたし”が言葉にいのちを吹き込み、語り合い、認め合います。だからこそ私はその「いのちの言葉」にじっと耳を傾けたいのです。そして、その「いのちが吹き込まれた言葉」は肉体が命を終えた後も、ずっと誰かの中に留まり続け、その人を力づけるのを知っています。遺伝子でいのちが続いていくように、言葉でもいのちは続いていくのかもしれないな・・と想いを馳せる今日この頃です。

ひまわり担当🌻齋藤智恵美

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